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【2024/05/17 20:13 】 |
後期試験の思い出1
思い出せるうちに思い出してみようシリーズ。

今ここにいるのはこの試験に合格したおかげ。
確かインフルエンザ関係で試験日程がだいぶ遅くなってた。

前期試験の発表が確か3月11日くらいで、後期が14日ぐらいだったかな?
そのときは前期もといセンターの失敗を引きずりまくってました。
私はそのころ予備校の寮にいたんですが、
寮の友達が前期で合格を決めて一人、また一人と
退寮していくのを見送るのがとても辛かったことを覚えています。
いっつもみんなでわいわい言いながらご飯を食べてたのに、
がらーんとした食堂で一人で食べたご飯は本当つらかった・・・

なんで?なんでこんなことになっちゃったん?
って後期試験の日までずっと思ってました。
当然赤本なんてまったく手につかず、
去年の分だけ見て
「ああ、こりゃ辞書が手元にあっても読むのしんどいわ」
とだけ思ってました。

センターの成績から判断して、合格するには7割程度必要だったはず。
ああこれは無理そうだなって思っていました。
またそのとき私立に合格が決まっていたので、一応受けてみて
もし無理だったらそこに行こうと思っていました。

これからあんな田舎まで行かなきゃいけないのか・・・めんどくせー
とぐーたら思ってるうちに当日。前日泣いてたので目が腫れて開かない。
羽田から1時間飛行機に乗り、ついた先はやはり田舎。
空港についた瞬間「田舎オーラ」をキャッチし、その場で帰りたくなりました。
地方空港と羽田空港ってそのくらい規模が違うんですよ。

ただ、あのとき私の中に
「こんなとこまでわざわざ来たんだから、やれるだけやって帰ろう」
という思いがありました。この一種の開き直りが合格につながったと思います。
この開き直りは私立の合格あってこそでした。
だから今でも私はその大学に感謝しています・・・(過去記事参照)

その後ホテルで一泊。
そのころ東京に住んでいたので、夜にその街の暗さに心細くなる。
私の第一志望(地元)に受かった知り合いに突発的に電話しました。
再受験で面接が不安なことを告げると、彼なりに励ましてくれて、
その心遣いがとても嬉しかったです。(彼は結局そこへ進学)

少しは安心したものの、やはり緊張は抜けず、
あまりよく眠れないまま、当日の朝を迎えました。

すみません、続きます。
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【2010/10/29 23:57 】 | 再受験・合格まで | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
センターの思い出~国語
現役・一浪のときのセンターの思い出はほぼなし。
雪国の出身なので、受験会場へ行く道が辛かったなあってことぐらい。

再受験時のセンター受験はきつかったですね。
とりあえず願書のほかにいろいろ必要なものがあるってことで慌てました。

会場は東京にある小さな私立大学。
15人ぐらいしか入らない教室でやりました。
こんなこじんまりとした中で私のこれからの人生決まるんだな・・・
とか思ってました。

一日目は確か文系科目。文系出身なので不安はほぼなし。
・・・と言いたいところなんですが、これが大失敗しました。

一発目の現代社会は易しかったんですが、
個人的に失敗できない国語でミスミスミス・・・
だいたい模試ではほぼ9割、失敗しても170は切らなかったんですが、
自己採点の結果は120点くらいでした。
国語で数学の失点をカバーするつもりだったのでとてもショックでした。

なぜ国語で失敗したのか。
今振り返って思えば、「直前の80分通し演習不足」が原因だと思います。
私は直前になって数学に時間を割くあまり国語に時間がとれず、
文系出身だという慢心も手伝って4問を通して演習する時間を取りませんでした。
今日は現代文、明日は古文・漢文・・・というふうにばらばらにやっていました。
これは良くないです。

ばらばらに分けてやっていると、どうしても「評論」や「小説」、「古文」「漢文」だけしか見えない。
他にも解かなければいけない問題があるということを忘れてしまう。
へたにその問題だけに対して集中力が増してしまうんです。
センター国語は英語と違い、時間の余裕はありません。
あのとき「古文が少し読みにくい」と感じたらすぐに別な問題に取り掛かるべきでした
そして最後にあまった時間を古文に当てるべきでした。
直前期に演習をしなかった私は、その一瞬の判断力を鈍らせていました。

結局センター重視の第一志望の大学は不合格。
国語の失点だけのせいではないと思いますが、
「もしあのとき、ああしていれば・・・」
と今でも思うことがあります。

これから本番を迎える皆様、
直前期に取る行動一つ一つが、人生を変えます。
秋から冬にかけては一年で一番しんどい時期だと思いますが、
冬からはしんどい、と思ってる時間すら惜しいくらい追い立てられます。
今、何をすべきなのか。バランスは取れているか。見落としはないか。
少しでも時間のあるうちに一度自分を振り返ってみるのも一つだと思います。

【2010/10/14 22:04 】 | 再受験・合格まで | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
卒業証明書・調査書
そろそろセンター出願のころ・・・?
卒業証明書をあわてて取り寄せた覚えがあります。
卒業証明書はすぐ手に入るんだけど、調査書はそうもいかないんですよね。

これらを母校に取りに行くのがしんどい!(距離的にも、精神的にも)
でも、私は公立高校出身だったので、当時の担任は異動になっていて会わず。
事務さんもまったく知らない人ばかりでした。
知らない人ばかりと言っても、いい年して受験生なのは変えようがないので、
やっぱりちょっと気まずかった覚えがあります。

できあがるのをまっている間、心の中で
「恥ずかしいことはしてない。この心労は合格するための必要経費だ!」
とずっと唱えていました。

卒後5~6年だったので、どちらも手に入れることができました。

母校で恥ずかしいのは一瞬です。
一生の仕事に就くためだと思えばどうってことないです。
でももらったらすぐにそそくさと帰りました・・・やっぱ居づらいですから。
【2010/10/14 01:30 】 | 再受験・合格まで | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
もう一つの再受験・編入学
私は前の大学を中退しているので、学士ではありません。
ただ、私のような学歴の人でも編入学の出願資格がある大学もあります。

一つは枠の多いことで有名な東海大。
あとたしか金沢医大にもあったような?でも出願締切が早いことと、年齢制限があることがネック。

私が受験したのは東海大だけなんですが、正直難しかったです。
入試は英語と知能テスト?のようなものの二つがあって、どちらも必答。
英語は比較的易しめなんですが、後者のテストがやっかい。
複雑な図形をこの角度できったときの断面を選べだの、
太郎君と花子さんが別々の地点からそれぞれの速度で歩き出して云々・・・

昔バイト先の塾で見た中学入試の問題を思い出しました。
SPIの数学系の問題にもちょっと似ていたかも。

英語はだいたい8割5分~9割正答の自信があったにもかかわらず、
結果は一次試験不合格。面接には進めませんでした。
まあもう一つの試験の自己採点が3割ぐらいだったしなあ・・・

ちなみに、通っていた予備校のスタッフによると、
毎年予備校からも東海大編入試験を受験する人は数人いるけれど、
合格者は毎年1人でるかでないかだそうです。
英語の試験は8割後半とってあたりまえ、「できた」と思っても落ちることが多々、
だそうです。
それは私もそう思います。英語で差はつかず、後半の数学系のテストがキモかと。

東海大編入試験は、出願資格がゆるいこともあり、とても多くの人が受験していました。
年齢はだいたい30代っぽい人が一番多く、大学生っぽい人もちらほら。
なかには50~60代ぽい人もいました。

余計なお世話とはわかっていますが、みんな学費大丈夫なのかな・・・




【2010/10/12 23:50 】 | 再受験・合格まで | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
私立医大の面接でのこと
ネットでは評判のよくない、東北地方にある私立医大を受験しました。
東北には1校しかない・・・?まあ某私立医大ということで。

あまりにこの学校については良くない話ばかりついてまわってる
気がするので、ちょっと残念な気がします。
私はこの大学にそれほど嫌なイメージはありません。

二次の面接のときに、家族構成(書類に記入欄あり)を聞かれました。
私はすでに両親とも他界したということを伝えました。
この質問の目的は「学費が払えるかどうか知りたい」ということにある
ということは想像がつきます。
なので、私は続けて父は開業医だったこと、学費と生活費は父の残して
くれたものから出すということを伝えました。

そしてそれに合わせて医師志望理由も伝えました。
開業医であった父がいきなり倒れたこと。
救急車で運ばれたが、市内の病院のほとんどが受け入れてくれなかったこと。
そのとき私たち家族がどんな思いをしたかということ。
最後に一つの病院だけが見つかったこと。
そこの先生が「病気で困ってる人を助けるのが仕事です」と言って受け入れてくれたこと。
そこで父が最期まで丁寧にサポートされて亡くなったこと。
私がどれほどその病院の対応に感謝し、感銘を受けたかについて。

それ対して面接官は、
「・・・お辛かったことでしょう。よく頑張ってこられました」
と言いました。

この言葉自体はわりと「そりゃ言うだろう」というものなんですが、
この前に受験した関東の某私立医大(再受験生が非常に多い大学)
の二次面接ではなんと言われたかというと
「いつかはみんなそうなるからね、あなただけじゃないんだよね」
とだけ言われました。

面接官の同情を引きたくて話した内容ではありません。
それでも後のほうの対応をされたら傷つきます。

二つの大学の反応の違いにもやもやとしたなという思い出です。
ちなみに、前の大学は正規合格、あとのほうの大学は二次落ちです。
自己採点では7・5~8割あったはずなのに、補欠枠にすら入れませんでした。
【2010/09/27 09:14 】 | 再受験・合格まで | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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